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昭恋館 よ志のやは、間人温泉郷「元祖丹後のかにフルコース・最高級間人(たいざ)ガニの宿」としてテレビや雑誌などの各種メディアにて多数ご紹介頂いております老舗旅館でございます。当旅館の場所は、京都の北に位置する丹後半島・間人にあり、日本海に面する様々な海の幸が集まる静かな漁師町でございます。ここ丹後・間人でのうまいものとしては、幻とうたわれる最高級松葉ガニである間人ガニをはじめ、あわびやエビ、鯛、ウニ、イカ、ブリなど、新鮮で極上の旬の海の幸を存分にお楽しみいただけます。ぜひとも、「昭恋館 よ志のや」で京都丹後半島・間人の旅をご満喫下さい。
日本海に面した間人港は小さな町の中心となる港です。高台から間人の町を見てみると、不思議なことに全ての家が港に向かって建っています。それだけ人間と海が一体となって生きている町です。
間人では、アワビ、マダイ、アカウニ、ヒラメ、トリガイ、ブリ、イカ、グジ(アカアマダイ)、サザエ、アンコウ、カキ、ワカメなど様々な海産物が集まります。また間人港の最も大きな特長はその地理的環境から特に大型で良質のズワイガニ(松葉ガニ)が近海で獲れる港です。つまり近海で新鮮なカニを取ることができ、かつ料理、職人、料理人の厳しいチェックで、間人港はまさにカニを美味しく食べることができる港であるといえるのではないでしょうか。
間人(たいざ)の地名はその昔「大浜の里」と呼ばれていました。聖徳太子の生母である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が当時、日本の仏教受容の戦いといわれる「蘇我・物部の戦い」から逃れるために丹後に御座所を設置し、身を寄せました。やがて争乱が終結し、都に戻る際、滞在中の大浜の人々からのもてなしに感謝して自分のその名である間人(はしうど)を村の名として贈ろうとしました。しかし、人々は「皇后の御名をそのままお呼びするのは恐れ多い」として、皇后がその地を退座したことに因んで、読みを「たいざ」としたと伝えられています。
昭恋館 よ志のやは、1928年の創業以来、2007年、創業80周年を迎えました。これもひとえにお客様をはじめ、様々な方々に支えられてきたおかげであると深く感謝いたしております。
初代は織物業、生糸業を経て、うどん屋を営んでいた。当時、初代がこういった商売をする傍ら、小さな伝馬船で海に出て、漁業も行っていた。先々代はこういった実家の商売の関係から、京都の西陣で、織物業の仕事についていたが、織物業での暖簾分けは当時、大変に難しいことであり、織物業をあきらめ、京都の料理屋で板前の修行に入る。

昭和3年の丹後大震災を契機にうどん屋を閉店し、先々代を板前として、料理旅館を創業する。創業時の名称は初代女将の名前から吉野家とした。その後結婚して、先代が生まれる。先代が、小学校3年生の時(昭和16年)板前であった2代目が死去。以後、板場を雇い、初代と2代目女将が吉野家を盛り立てていく。そのころの営業形態は旅館業よりも料亭に近く、芸者さんが30人近くいて、地元の旦那衆、また、西陣からの客人をもてなす場所として発展していったという。

先代は実家である吉野家を継ぐために、高校を卒業後、京都市中京区の魚長で料理修業をつみ、昭和29年に帰郷。吉野家の3代目として、また料理長として、初代、2代目女将と共に吉野家の発展に力を注ぐ。昭和31年に結婚し、3代目女将の時代になると旅館として宿泊に力をいれ、本来の旅館業の充実をはかる。おりしも日本は高度経済成長期を迎え、それまで、贅沢とされ、一部の人間のものであった「旅行」が大衆の楽しみとなり、特に夏の海水浴は家族の一大イベントとして定着していく。間人の町にも数十件の旅館、民宿が誕生し、後ヶ浜海水浴場は多くの家族連れで賑わいを見せた。その中で吉野家は料理の美味しい宿として評判を高めていった。

その評判は京都市内まで届き、大映、日活、東映、松竹など映画のロケ隊の定宿となっていく。だが、それだけにとどまらず、3代目は間人の魅力は夏だけではないことを知ってもらおうと間人港に水揚げされる新鮮な蟹の調理法の研究を始める。昭和32年から2年の月日を費やし、後に黄金のスープと絶賛される吉野家のだしを完成させる。しかしこれに満足せず、さらに料理の研究に没頭し、自身「完成したときには体が震えた」と語る【蟹の洗い】ではない【本物の蟹刺し】を作り出し、昭和34年ついに丹後で初めて【かにフルコース】を完成させた。
昭和40年代より徐々に増えていった映画のロケ隊であるが、昭和53年の新築工事により一気にその数を増やし、日ごろ美食を楽しんでいる芸能人の中にも多くのファンを獲得していく。特に勝 新太郎氏には吉野屋を愛していただき、京都の撮影の合間に足繁く訪れていただいた。また、森繁久彌氏には館の衝立に「海の如く大らかに」ではじまる一文を寄贈していただき、お帰りになった後、礼状として巻物につづった一巻をよせていただいている。そういった声はマスコミにも伝わり、度々テレビ番組にも登場するようになっていく。その傍ら、観光協会長として、地域の料理人たちを集め、蟹料理の講習会を開催するなど、間人蟹のブランド化に奔走する。漁師、漁協、水仲組合、観光協会、旅館組合などの協力もあり、地域一丸の活動としての結果、日本初のブランド蟹、間人蟹が誕生したのもこの頃である(現在のように緑のタグをつけるのはもっと後年になってからであるが)。
いまや、よ志のやの代名詞ともいえる「間人蟹フルコース」、また四季折々の新鮮な魚介類を使った鮮魚の会席料理。それらは時代を超えて、「吉野家」から「よ志のや」へと引き継がれている。